<特集>私のまち ―出水― その7

 出水市内の指定文化財 その1


今回の特集は、出水市内の指定文化財のことを調べてみました。
知っていそうで知らない歴史。ぜひ、参考にしてみてくださいね。

種子島楽  種子島楽は、出水地方に昔から伝わる郷土芸能のひとつで、夏踊りの一つとして踊られていたものでした。今は、保存会が結成され、大きな行事の時などに踊られるくらいなので機会があったら、ぜひ、見ておきたい郷土芸能です。
野間の関跡及び古井戸  野間の関所の前身は「平松番所」で、関ヶ原の戦い前後に設置され、以後代々の地頭は国境警備が主な任務となったそうです。
関の規則は時代によって違いますが、他領への旅行や物資の出荷を検査して他から来た者で証文がなければ絶対に入ることは出来ず、万が一証文がない者が領内で見つかった場合、通った関所の番衆も処罰されるほど厳しかったということです。
野間の関跡
野間の関跡
山田昌巖の墓  今でも出水で生きつづけている「出水兵児修養の掟」は、青少年教育の規範とされていますが、その教えを説いたのが山田昌巖です。昌巖は三代目地頭として出水に着任し、薩摩藩有数の武人でした。又、産業にも力を入れ、萩之段に名を残す「昌巖溝」は、トンネル掘削による灌漑用水の始めでした。
90歳で他界し、西之口の上高城に葬られています。
山田昌巖の墓
山田昌巖の墓
薩州島津家の墓  墓地の奥にある石垣の正面には島津家初代用久と夫人、右側には二代国久から七代忠辰までの墓が並んでいます。由緒記によると二代以下の墓碑は、全国各地にあったものを宝永五年(1708)に移葬したとあるそうです。 薩州島津家の墓
薩州島津家の墓
五万石溝底水道  五万石溝は、藩主島津吉貴の命によって宝永年間(1704〜1711)に起工され、享保十九年(1734)に20`にも及ぶ用水路が完成しました。しかし、この溝は、勾配5千分の1でシラス地帯を通るので、シラスの流入があり堤防の崩壊などがあるので維持管理が大変だったようです。藩政時代は農民の奉公によって管理されていましたが、明治以降は管理の手も行き届かなくなって用水も流れなくなってしまったそうです。
城山(亀ヶ城・花見ヶ城)  城山は史料が少ないので詳細は不明ですが、少ない史料などから推測すると、建久8年(1197)の薩摩国図田帳によると下司和泉小太夫兼保が、亀ヶ城を築いたとされています。また、地理史や三国名勝図絵などには、亀ヶ城とは出水城のことで、兼保の子孫の居城だったが、島津八代久豊の第二子用久が薩州家と号し、以来7代まで居城したことが記されています。薩州家墓所由緒には、用久が出水城を改修し、水夫城を本丸として享徳2年(1453)に入ったとあります。
出水市麓武家屋敷  麓武家屋敷は、出水小学校を中心に上堅馬場、堅馬場、諏訪馬場、山崎、上山崎の五集落から成り立っています。麓と呼ばれる由来は、徳川幕府の一国一城令によって多くの武士を抱えた島津氏が、外城制度を用い、ほぼ各郷ごとに地頭を中心として組織され、当初は113、後には102外城に整理されていきました。この外城の政治上の中心地を麓と呼んでいました。
文化財に指定されているのは、石垣・生垣・武家門になります。
麓武家屋敷
麓武家屋敷

出水市内の指定文化財 その2

文化財の種類・所在地などは観光のページ をご覧下さい。

参考資料 ”出水の文化財(史跡と文化財 改)”

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