| History |
出水市は、古代は日向国「泉」といい、隼人種族の蟠居の地であった。
大化の改新後、郡名制定のとき「泉」を「出水」と改め、中世さらに「和泉」と称して建久年間(700余年前)
和泉太夫兼保の築城いらい、島津家始祖の治めるところとなったが、明治4年7月廃藩置県が実施されるとき鹿児島県に属した。
明治22年4月市町村制実施にともない、上出水村、中出水村、下出水村の3村に分かれ、
さらに明治24年11月上出水村から大川内村が分村した。
一四二五年奥州島津家の流れをくむ島津用久が出水の地に薩州家を興して出水亀ヶ城に居城、
以後七代忠辰に至る一四〇年間、出水地方を支配することになりました。
天正十五(一五八七年)になると、豊臣秀吉の征西により島津氏の北上は拒まれました。
その時の出水城主は薩州家七代忠辰であり、島津義久麾下として八代地方を守っていましたが、
単独和平に応じて秀吉から本領安堵を許可されたのでした。
しかし、まもなく起こった朝鮮の役では、忠辰の不首尾によって薩州家は改易され、
出水地方は一時秀吉の直轄地とされたのでした。
文禄二(一五九三)年、朝鮮の役における島津義弘・家久父子の軍功によって秀吉の死後、
慶長四(一五九九)年正月には再び出水の地は論功行賞として島津氏に加増されました。 参考資料
大正6年4月上出水村は出水町に、大正12年7月中出水村は米ノ津町にと、それぞれ町制を実施し、
昭和29年4月両町が合併して市制をしいた「出水市」は、さらに同年10月大川内村を編入して
人口4万6千を擁する市となった。
(昭和35年3月発行 いずみ1960年版より)
出水市の人口は平成11年10月1日現在39826人です。
(統計いずみ平成12年版より)
島津家と出水
薩州家五代実久の時代は薩州家の勢力が強大で、宗家島津氏を凌いでいましたが、
その後、分家伊作家から宗家を継いだ島津貴久が父忠良と共に薩州家を屈服させて三州を統一しました。
島津氏は、更に日向・肥後を征服、孫義久・義弘当の名将を得て、遠く北九州にまで攻め入り、
殆ど九州全土を統一せんします。
江戸時代に入ると、出水は薩摩藩最重要の境目となりました。藩は他に先立って出水外城の
建設を始めました。
島津氏は膨大な武士人口を城下のみに収め得ず、地方へも居住せしめたのが
外城制度の一つの由来であり、他も出水にならって造られたといいます。
出水は藩内最大の外城であり、藩内各地から選りすぐった高禄勇猛な武士を居住せしめたと
いわれます。元和六(一六二〇)年の軍役高帳によると、出水には蒲生、国分、帖佐、加世田、日向等
から多くの武士が来たとのことです。
薩摩藩最大の外城であった出水地方には国境の警備の防衛策として優れた人材を配しました。
武家屋敷が立ち並ぶ出水市麓
外城制度によりできた武士の居住区のひとつです。
写真左の竹添邸は建物、庭とも一般公開されています。石のお風呂など当時の暮らしがそのまま再現されています。
年歴
古い時代
先土器時代
縄文時代
弥生時代(B.C300年〜)
700年初頭
1179年
1425年
1587年
1599年
1600年頃
1734年
1872年
1879年
1881年
1889年
1890年
1891年
1919年
1920年
1927年
1940年
1945年